東銀座と私/日暮真三(後篇)

東銀座と私/日暮真三(後篇)

2023.12.27
東銀座と私
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今と昔を結ぶまち、東銀座。まちや風景は変わってもそこで過ごした時間やかけがえのない経験はいつまでも心に残り続ける―
東銀座にゆかりのある方々に東銀座や銀座、築地などを含め、このエリアで過ごした想い出やこれから期待することなどを文や絵など形態にとらわれず、前篇・後篇として2回にわたり自由に綴っていただくエッセー企画「東銀座と私」。
その第5弾となる今回は、東銀座を拠点に、コピーライターをはじめ様々分野で活躍する日暮真三さんにご寄稿いただきました。今回は、後篇をお届けします。

ぼくの仕事場は首都高を挟んで松竹スクエアビルの向かい側。住所は銀座四丁目だけれどれっきとした東銀座である。この地に40年。トータルで銀座界隈に50年。現役のフリーランス・コピーライターとしては最古参になっていると思う。やれやれ。

お向かいに和風シチューの「銀之塔」、ここはかつては「銀の塔ひら井」といっていた。久保田万太郎が愛した店でシチューとコキール(グラタン)しかない。シチュー鍋のかたわらのすみっこにいつも座っていたおばあちゃんは、築地3丁目で待合をしていた光栄さんの娘さんで、おじいちゃんは歌舞伎俳優の七世市川中車の番頭さんだったと、安藤鶴夫が「年年歳歳」に書いている。歌舞伎座の楽屋への出前が多いのはそのせいか。いつか歌舞伎俳優の浩太郎さん(現・三代目中村扇雀)と飲んでいたら、今は「エルベ」からの出前も多いですよといっていた。そうなんだ。4丁目の路地から3丁目に引っ越した「エルベ」も同じような和風シチューの店で、こっちの方が少しお安い。「銀之塔」はシチューが3000円くらいになっちゃったからなあ。

東銀座の3丁目といえばマガジンハウス前の路地にあった「味助」がなつかしい。まったくもって独特の醤油味の、真っ黒な和風のラーメンとシュウマイの店。チャーシューはのっているけれど、汁は脂っけがなく実にさっぱりしていて、「旨い」と唸るほどのものでもないけれど、クセになる味の人気店でした。オカモチを下げた出前の自転車が、木挽町内を走り回っていたものだけれど、もう20年くらい前に閉店してしまった。

2丁目のラーメン屋の「萬福」はまだ小さな2階家で、上でいつも子どもがバタバタと走りまわっていて、親父さんにしょっちゅう怒られていた。その怒られていた子が今の「萬福」の店主。立派な店になったものだ。とにかく少し前までは、高級料亭は別にして、イタリアンやフレンチ、そんな洒落た店は東銀座にはあまりなかったんです。

ぼくが今いちばん気に入っている店は、1丁目のとてもわかりにくい路地にある。「木挽町湯津上屋」。まったくなにもかもひとりでこなしている一人蕎麦屋です。無口、誠実、一本気。が、飲めば底なしに飲める人なんだから、油断はできない。親の代からの蕎麦屋で、鎌倉で修行して、木挽町の路地にいい場所を得て、日々黙々と蕎麦を打っている。こういう職人がこの街を気に入って、いてくれることがうれしいじゃないか。蕎麦はまちがいなく凛として切れ味がいい。装幀家の故・菊地信義さんもずいぶん贔屓にしていて、日経新聞の夕刊エッセイにこの店のことを書いていました。君もひとり、ぼくもひとり。おたがいに偏屈なところのある「一人営業」だから、どこか気脈の通じるところがあるのかもしれない。

木挽町湯津上屋

今ぼくの仕事の一つは劇団四季。東京オフィスも四季劇場「春」「秋」も竹芝にあるから、都営地下鉄で東銀座から最寄駅の大門まで5分もかからない。有明の四季劇場にも東銀座からバスに乗れば一本で行ける。なんともまあ、交通便利。言うことなし。生きてる限り、まちがいなく、この場所を離れないと思う。ありがたや、東銀座。仲間内では、東銀座をヒグラシ銀座と呼んでいるらしい。

日暮 真三(ひぐらし・しんぞう)
1944年生まれ。コピーライターとしてtaka-Q「袖の長さが気になりだしたら、資格あり」でのTCC新人賞受賞を皮切りに数々の賞を受賞。無印良品のネーミング開発やNHK「おかあさんといっしょ」で作詞を手掛けるなど、多岐にわたり活躍している。

日常を綴るブログ「銀座四丁目その日暮」も要チェック!