今と昔を結ぶまち、東銀座。まちや風景は変わってもそこで過ごした時間やかけがえのない経験はいつまでも心に残り続ける―
東銀座にゆかりのある方々に東銀座や銀座、築地などを含め、このエリアで過ごした想い出やこれから期待することなどを文や絵など形態にとらわれず、前篇・後篇として2回にわたり自由に綴っていただくエッセー企画「東銀座と私」。
その第13弾となる今回は、株式会社紙パルプ会館に勤めるかたわら、2006年に銀座ミツバチプロジェクトを立ち上げた田中淳夫さんに、銀座の街の活性化とミツバチが住める街づくりなどについてご寄稿いただきました。まずは前篇をお届けいたします。
大学在籍中、夜のアルバイトとして紙パルプ会館の会議室に来ておりました。その縁から入社し、40年を超える銀座との関わりが始まりました。
かつて、銀座通りの東側には王子製紙や中越パルプ工業の他に、本州製紙、十条製紙、神崎製紙など多数の製紙メーカーが本社を構えていたのはご存知でしょうか。遡ること明治5年、大火をきっかけとして、国家予算のかなりの費用を費やし、江戸時代から続いた町並みを造り変え、西洋式の煉瓦街が誕生しました。この煉瓦街に入居したのが、近代化を代表する新しい産業として台頭していた出版社や新聞社でした。特に銀座通りの西側に多数進出したことが知られています。紙は文化のバロメーターとされ、大切な素材を供給する製紙メーカーが銀座通りの東側に多数集まりました。
銀座は約100年前の関東大震災、約80年前の太平洋戦争など何度も灰燼に帰す度に復活してきました。戦後朝鮮戦争特需で三白景気(紙・砂糖・セメントなど白いものが活況)と呼ばれる好景気を迎えた昭和26年、紙パルプ業界のセンターとして会館が誕生しました。私は、建て替える前のだいぶ古い建物だった紙パルプ会館に入社しました。その後バブル景気を迎えた頃に、現在のビルへ建て替える事になり、30代だった私も交渉事で奔走しました。93年に新ビルが竣工した時は、ちょうどバブル景気が崩壊し、右肩あがりに設定していた計画が全て右肩下がりとなってしまいました。当時の金利は8%近くまで上昇し、その後は銀行まで倒産する時代がやってきました。さまざまな条件変更はあったにしても、2階・3階の貸し会議室「フェニックスホール」、4階から8階に「松屋本社」、9階から11階に「紙パルプ業界団体」が入居して何とかスタート出来ました。しかし、当初予定していた建設費65億が、85億まで膨れ上がり、上司から私の人生は借金を返すだけと言われた事を覚えています。
以前から松屋銀座店に駐車場を提供していたので、新しいビルも地下40mまで掘り下げて102台の駐車場を作りました。この掘った真下がちょうど三十間堀(※)にあたり、終戦後に銀座の瓦礫を処理した為、さまざまなものが掘り出されました。石垣、ぶつ切りのレール、レンガなど戦災で焼けた銀座のさまざまな来歴がここに埋まっていたのです。
松屋通りに面して目の前に朝日稲荷神社がありますが、赤坂にある日枝神社の兼務社です。紙パルプ会館が位置する三十間掘りの東側は、鉄砲洲稲荷となっていて銀座にはこの見えない境が結構有るのです。
※三十間堀(さんじっけんぼり)…かつて銀座の中央通りと昭和通りの間に流れていた木材を運ぶ為の運河。
(写真提供:中央区立京橋図書館)
事業の1つがフェニックスホール(貸し会議室事業)でしたので、空いてる時間を使ってさまざまな方に発信していただこうと場の活用を企画しました。例えば「老病死の会」は医療福祉の勉強会、若手の官僚と学生たちが政策を学ぶ「新世代の会」、スイーツをひたすら食べる「東京スイーツクラブ」、私が主宰していた「銀座の街研究会」、そして農水省や生産者、料理人などと食を考える「銀座食学塾」など、さまざまな会が立ち上がりました。この食の勉強会に次の際に講師としてお招きしたことが、ビルの屋上を探していた岩手県の養蜂家との出会いでした。当初は、「まち中でミツバチを飼うなんて危ないじゃないか」と伝えたら、巣箱から上空を飛んで直接花に向っていくので1日40万人集まる銀座のまち街でもミツバチを見る事は無いと説明を受けました。ちょうど松坂屋と森ビルが銀座6丁目に高層ビルを建てる計画が持ち上がり、「銀座の街研究会」でまち街の在り方も考えていたので、江戸開府以来400年、日本の消費を牽引する銀座のまち街で天然の蜂蜜が取れたら面白いと思い、「当社のビルの屋上を貸しても良いよ!」と話をしたところ、二転三転して私たちがミツバチを飼うことになってしまいました。これが今も続く騒ぎのきっかけです。
(所蔵:銀座の街研究会)
2006年、桜の開花した3月28日(ミツバチの日と呼んでいます)からミツバチを飼い始め、初年度は約3ヶ月間で150キロを収穫しました。ソメイヨシノから始まり、週替わりに変化する銀座のテロワール(作物にもたらす独特の個性や風味)です。銀座を味わうなんて素敵なことだと考えて、是非銀座の技で商品にしていただきたいと相談しました。初年度から松屋デパ地下でスイーツ、ホテルやレストランでお料理に、三笠会館や銀座社交料飲協会(約1,000軒が加入)のバー等で次々と商品が誕生しました。
(後篇につづく)
(所蔵:銀座ミツバチプロジェクト)
<プロフィール>
田中 淳夫 (たなか あつお)
1957年生まれ。多目的ホールなどを管理する株式会社紙パルプ会館(2023年退任)に勤めるかたわら、「銀座の街研究会」の代表世話人として銀座の街の歴史や文化の研究にも取り組む。養蜂家の藤原誠太さんとの出会いがきっかけで、「銀座ではちみつが採れたらおもしろいよね」との想いから、2006年に銀座ミツバチプロジェクトを立ち上げ、銀座の街の活性化とミツバチが住める街づくりを提唱し、屋上緑化を推進する。また地方との交流で、顔の見える関係の構築に尽力。都市養蜂のパイオニアとして各地のミツバチプロジェクトの発足に協力し、全国各地にミツバチ仲間を広げている。
2007年「あしたのまち・くらしづくり会議」にて奨励賞、2008年「エコ・ジャパン・カップ2008」ライフスタイル部門にて元気大賞、2010年「環境大臣賞」を受賞。2012年、農林水産省「食と地域の絆づくり」表彰。2023年、NIKKEI脱炭素アワード 「プロジェクト部門大賞」受賞、2024年、東京都NBSアクションアワード優秀賞受賞・特許庁より「銀座はちみつ」が地域団体商標取得。著書 「銀座ミツバチ物語」「銀座ミツバチ物語part2」時事通信社。中央エフエムにてラジオ番組「銀ぱちHook Bee to You!」が毎月最終週の水曜日20:30~放送中。







