江戸時代、現在の東銀座駅周辺のエリアは、徳川家康の指示による江戸城修築・拡張工事の為、木挽き職人(木材を大きな鋸【のこぎり】で切る人)が多く集まっていたことから、“木挽町”(こびきちょう)と呼ばれていました。木材を運ぶ為の三十間堀(さんじっけんぼり)という運河も張り巡らされ、江戸っ子たちの活気に包まれていました。
また江戸時代は幕府から権利を与えられた劇場だけが櫓(やぐら)を上げて歌舞伎の興行をすることができ、木挽町には山村座が構えられました。さらに、それらを取り巻く茶屋なども集まり、大きな賑わいを見せていましたが、江島生島事件で廃座になってしまいます。しかし、芝居の文化は途絶えることはなく、残った江戸三座のひとつである森田座を筆頭に、大小さまざまな芝居小屋が立ち並び、芝居まちとして親しまれるようになりました。
その後、天保の改革により、猿若町(現在の浅草)に芝居小屋が移転し、一時的に木挽町での芝居の文化が途絶えますが、明治5年(1872年)に森田座が守田座と名称を変えて現在の中央区・新富町に復活。その後も新富座と名前を変えながら、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失するまで芝居の文化を紡いでいきました。
また森田座に加え、明治には歌舞伎座や新橋演舞場も開場。現在もさまざまなジャンルの舞台が上演され、芝居文化の息吹をまちに根付かせています。
そして現在の銀座6-14付近に、その歴史を感じさせる森田座跡の石碑があります。
現在まで継承されてきた芝居まちの文化や当時の芝居小屋の様子を思い浮かべながら、ぜひ東銀座エリアを散策してみてください。
※本記事は、中央区の郷土資料や江戸三座の記録をもとに構成しました。より詳しく知りたい方は、中央区立京橋図書館の郷土資料コーナーなどがおすすめです。






