東銀座と私/日暮真三(前篇)

東銀座と私/日暮真三(前篇)

2023.11.30
東銀座と私
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今と昔を結ぶまち、東銀座。まちや風景は変わってもそこで過ごした時間やかけがえのない経験はいつまでも心に残り続ける―
東銀座にゆかりのある方々に東銀座や銀座、築地などを含め、このエリアで過ごした想い出やこれから期待することなどを文や絵など形態にとらわれず、前篇・後篇として2回にわたり自由に綴っていただくエッセー企画「東銀座と私」。
第5弾となる今回は、東銀座を拠点に、コピーライターをはじめ様々分野で活躍する日暮真三さんにご寄稿いただきました。まずは、前篇をお届けします。

【昭和39(1964)年 銀座5丁目・みゆき通り周辺の風景】(写真提供:中央区立京橋図書館)

かつて東銀座は日本の若者文化の発信源でした。1964年4月28日、歌舞伎座裏、銀座3丁目の平凡出版社(現マガジンハウス)から『平凡パンチ』が創刊されたのです。そのインパクトは衝撃的でした。若者たちはこの新雑誌がくりだすファッション情報に夢中になり、銀座みゆき通りには「みゆき族」という新人類の群れが出現しました。のちの原宿「竹の子族」などに先行する、若者たちのある種の革命といってもいい流行でした。

ぼくはこの年の3月、なんとなく世の中の動きに反応して、大学を中退。銀座5丁目みゆき通りに貸し机をひとつ借りて、いきなりコピーライターとして仕事をはじめました。20歳の春でした。当時「みゆき族」にインタビューすると、3人に1人はコピーライター志望と答えたというほどコピーライターは人気職業だったのです。とはいうものの、いきなり仕事があるはずもありません。ツテをたどり、プロダクションにコンタクトし、はじめてゲットしたのが創刊されたばかりの『平凡パンチ』のファッション広告コピーでした。アイビールックのVANやヨーロッパ・コンチネンタルのJUNが競い合う時代でした。ファッション産業はまだ弱小メーカーが多く、自社で広告制作スタッフをかかえているところはほとんどありませんでした。そこでプロダクションにデザインとコピーを一括して依頼するのです。

『平凡パンチ』に掲載する広告づくりがぼくのメインワークになり、書いて書いて書きまくりました。そして、締め切りギリギリの入稿原稿をもって、東銀座の『平凡パンチ』によく通いました。のちにマガジンハウスの社長、会長になる木滑良久さんが編集長でした。平凡出版は活気にあふれ、自由闊達な仕事ぶりにはずいぶん刺激をうけたものです。のちに『平凡パンチの三島由紀夫』を著す編集者の椎根和さんは、確か同僚の奥さんと2年交代で勤務していたと思う。2年夫が働く、その間、妻は休む。2年妻が働く、夫は休む。そんな破天荒な自由が効く職場だったんです。

さて、無事入稿をすませると、徹夜明けの築地にくりだしてモーニングビールと刺身とアジ納豆の朝食。東銀座は築地という日本一の台所をかかえて、夜なべ仕事の多いデザイン関係者に大いに愛される街になっていたのです。「明治おいしい牛乳」やNHK「デザインあ」のグラフィックデザイナー・佐藤卓さんは銀座2丁目(今は3丁目並木通り)に、「地下鉄のポスター」や「いいちこ」のディレクター・河北秀也さんは銀座5丁目(その後3丁目)に、昭和通りを挟んだ向かい側の本州ビル「ライトパブリシティ」には和田誠さんや篠山紀信さんが、銀座2丁目場外馬券売場近くの「日本デザインセンター」には宇野亜喜良さんや横尾忠則さんがいました。なんとぼくも「ライトパブリシティ」に5年間いたんです。

【昭和42(1967)年 銀座4・5丁目周辺の夜景 / 当時は路面電車が走っていた】
(写真提供:中央区立京橋図書館)

その後、 いっとき六本木に移りましたが、どうしても東銀座界隈を忘れられずに舞い戻って来ました。場所中毒、といってもいいのかもしれない。ほかのデザイン事務所の人たちも、引っ越したとしてもおなじ町内の別の場所だったりする。ぼくの仕事場は歌舞伎座脇に40年。アシスタントのひとりもいない気ままなフリーランス。どんな時間帯でも、ふらりとおいしい酒とご飯にありつけるしあわせは、ここならではじゃないかなあ。

(後篇につづく)

日暮 真三(ひぐらし・しんぞう)
1944年生まれ。コピーライターとしてtaka-Q「袖の長さが気になりだしたら、資格あり」でのTCC新人賞受賞を皮切りに数々の賞を受賞。無印良品のネーミング開発やNHK「おかあさんといっしょ」で作詞を手掛けるなど、多岐にわたり活躍している。

日常を綴るブログ「銀座四丁目その日暮」も要チェック!